自分の不幸は、相手の幸福と調和させてしまえ
基本的に今のところ(24歳現段階)において、結婚する意味を見いだせていないので、結婚は考えなくていいと思っている。ただ、きっといつか結婚したいと思う時期がくるだろう。いずれかは。
今、生きていて1秒も結婚したいとか思ったことはない。きっとそれは、多分ウミガメがテスラモーターズに入社して宇宙にいこうって考えてるんじゃないの?ってくらい考えられない。ありえない。
ただ、その生きる瞬間瞬間の、1秒×60×60×12の1日のなかで、ふっと
「おお、結婚ていいものだな」
と、思う瞬間はある。
それは、友人(たぶん女子、男友達みたいな女子)がインスタグラムに、夕飯だったり、彼女(たぶん女子)が作ったご飯の写真をUPしているのを、みたとき!
基本的には、ホテルのフロントの逆サイドくらいに入っているレストランのランチブッフェの写真をインスタに上がっているのをみたら、視線がその0.5秒後には次の写真をみている状況くらいに、ニューロンが反応しない(興味が無い)けど、なぜか知らんが、その写真に関しては、すばらしい。
たぶん、もしかすると、芸術に類する感動がそこにある。 というのも、芸術って何がすごいのか全然言葉とかでわからないけど、なにか心が動くというか、わあすごいなぁって思う。その感覚。
(その芸術的感覚は、実は脳のある場所で反応していて、何ていう場所か忘れてしまったけど神経美学という領域で研究されているよ。セミールゼギという人がそれについて研究していて、先日、彼の研究室にいってきました)
その美しいものを見た時に反応する脳の部分が、その料理を見たときに、反応しているんだと思っている。
そんなときはですね、ああ、結婚生活というのは実に芸術的ですばらしいですね。って思うわけですけど。じゃあなんでそこに良さを感じるんだろうという事を思ったわけですよ。
すると、
もしかすると、人間が美を感じるのは、自分が持っていない力で自分では到底できないようなイマジネーションでモノを創造するからではないか。と思う。
例えば、俺と芸術家が同じテート・ブリテンというロンドンの近代美術館にいったとしよう。すると、きっと、美しさを感じる作品は絶対に違ってくると思うんだ(あやっべ、絶対ってことばを使ってしまった)。それは、自分に出来ることと、出来ないことの差が有無、違いであり、脳の反応の違いである。
まあ、簡単な話。俺みたいな料理できない人間は、速水もこみちの料理を見ただけで、すげーってなるけど、料理人からしたら・・・ってかんじ(感じであって、正確な例ではないよ、ニュアンスが若干ちがうよ)
まあ、そういうことと、もうひとつ。
結婚は、自分の不幸が相手にとっての幸福で、その調和をするためのものである。のか。
ということ。自分は料理をあんなに豪華に(写真なし)創るのは、きっと不幸を感じるだろう。しかし、彼女にとってはそれが幸福だ!
それだよ、それ。自分の不幸を、相手は幸福に調和することが出来る。
それが、できれば、いいんじゃないかな。と思う。
なので、自分はどんなときに不幸を感じるのかっていうのをひたすら、ピックアップしまくって、それをあなたは幸福に感じますか?的なアンケートてきななにかを彼女になったひとにとるのが、いいかもしれん。。。そして、ある一定のポイントをクリアしたら結婚を考えるのがいいかもしれん。。。
かもしれん。。。
まあ、そんな程度。そんな感じ、ゆるさで、思った。だけ。
いじょう!