人間は時間とともに加速する
学部時代は工学。そして大学院は神経科学。専攻を大きく変えたというのはおそらく大きなDisadvantageとなるのに加えて、そのNewな学問を英語で勉強する。
英語は昔から得意だった訳ではない。昔のブログに書いたけれども、真剣に英語の勉強を始めたのは大学2年生のとき。その時はまさか、その数年後にイギリスの大学院に行くとは思ってもいなかった。
元々は日本の大学院に行きたかった。だけど、神経科学を勉強するには、医学の学位を持っていなければならないところが多く、神経科学を大学院で勉強する事を諦めなければならないと思った時に、海外の大学院ではどうだろう。と思ったのはいまの自分がここにいるきっかけとなっている。
卒業論文の提出は9月の5日。もう1ヶ月も無い状態。つまり、大学院生活は終わろうとしている。自分が思っていた以上に、脳の学問はいろいろなスキル・技術が必要となる。
大学院に来る前に、例えば、EEGを使った実験全般など(例えば、Filter やEpochについて)に勉強していれば、もうすこし今研究しているところの更に先までできただろうか。今、自分が「Future Works」として記述しようとしているところまで届くのではないか。
と思うことが、ある。
もちろん、こんな事を思うのは不毛なことは重々承知しているけど、特に教授と話していると、それを実感する。
後悔はしていない。けど、まだ出来たはずである。こういってはいるけれども、もともとの目標が達成していないということではない。それは達成できそうである。
では、なぜこういうノスタルジステックに近い感情を抱くかというと、それは過去の自分が立てた目標が低いわけではない。時間の経過性を考えていなかったからだと思う。
時間の経過性というのは、例えば、今の自分が1年後の自分はどうなっていたいかという目標を立てるときに、今の自分の能力で1年後の目標を設定するのではなく、常に加速度が上がっているという状態で考えるべきであるということ。つまり、自分が等速度運動をするのではなく、指数関数的(?)に加速しなから運動するということを考える出来だということ。
その加速度がどれくらいというのは、おそらくすごく予測が難しいけれども、それは大げさに、大きく見積もって良いものだと思う。1年は、自分が思っている以上に、長い。加速するから、その分、大きな目標を見ることができるようになる。
1年の長さは、頭で考えるより、体で感じるほうが長い。
という、だいぶ意味不明てきメモ。
以上。(笑)